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index
『贅沢入門』目次

001
寿司と天ぷらと日本橋

006
中華料理の話

008
Nゲージ

009
奥志賀スキーの贅沢

017
『地ひらく』

018
現代恋愛考

019
ナポリが日本に問うこと

020
京都の街、二一世紀への宿題

リンクした記事は、見出しや内容が単行本とは一部異なります。



Profile
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福田和也 文芸評論家・慶應義塾大学助教授
2000.11.17

 京都には、よく行きます。
 東京以外で、一番くわしいし、また親しんでいるのは、京都だといってもいいくらいに。
 たぶん、ごく近く、というよりずっと通勤、通学の経路だった横浜よりも京都によく行っていますし、詳しいと思います。
 今回、京都について書いてみようと思ったのは、前に書いたナポリでの体験から、刺激されたことが大きな要素を果たしています。

 ナポリは、イタリア第三の都市であり、500万以上の人口をもった、ヨーロッパ屈指の大都市です。19世紀後半に、イタリアが国民国家として統一されるまでは、半島随一の先進的な都市でした。
 サルディーニヤや、トリノといった北部の都市がイニシアティブをとった国家統一が進むなかで、反統一をかかげてきたナポリは、国政上での冷遇をうけるとともに、北部がフランス、ドイツとの連携のもとでの産業整備により、発展するとともに、その地位をどんどん低下させていきました。 こうした歴史的条件が、前に申しあげたような、インフラの不十分な、混乱をきわめる、犯罪も混乱も少なくはないナポリという都市をつくりあげたのです。
 けれども、今日のナポリは、その混乱や、経済的な沈滞にもかかわらず、かなり魅力的な都市です。食事は旨く、市民は陽気で、市街にはコンビニエンス・ストアも、ファースト・フードもありません。

 一方の京都はどうでしょうか。
 私は、京都が、神社仏閣という水準だけではなく、日本でもっとも、持続的な文化が息づいている土地であることを認めるのにやぶさかではありません。
 文化が息づいているというのは、こういうことです。分かり易く云えば、京都の祗園地区には、日本で一番、水準の高い和食が、軒を連ねてひしめいています。この競争の激甚さと、その競争から生まれる料理の質は、東京はもちろん、ほかの土地の料理を「和食」と呼ぶことに、強い抵抗を覚えさせるほどです。

 にも、かかわらず、また、京都の破壊はすさまじいものです。
 私は、四条のどん詰まり、八坂神社の鳥居の上に、東山が迫ってくるという眺望が、とても好きなのですが、数年前に、八坂神社の前に、コンビニエンス・ストアが出来たのです。この時ほど、京都における街路の破壊を身近かつ、危機的に感じたことはありませんでした。

八坂神社    撮影:福田和也(以下同)

 たしかに、京都の街中は、わが国では珍しいほどの、持続性、一貫性をもっています。年末の顔見世といえば南座は華やぎ、錦市場の一癖も二癖もある魚屋、乾物屋が活気づくという図式は、かわりはしないでしょう。
 実際、錦市場のような場所が、こんなに都市の中央部にあるというのも、あるいは、河原町のような目抜き通りに、質の高い、古書店や骨董屋が軒を連ねるのも、京都ならではのことで、ほかの都市には絶えてありえないことです。

錦市場

 にもかかわらず、危惧せざるをえないのは、ここ何年かの市街の荒廃ぶりです。
 ビルの建設による、景観の破壊もひどいものでした。町屋の旧家の方にうかがえば、ついこの間まで、東西南北の山が見渡せた、つまりは盆地としての京都に住んでいることが意識できた街での暮らしが、視覚的意識とは、完全に無縁になってしまった、とおっしゃいます。

 けれども、破滅的なのは、バブル崩壊後の、コンビニとファースト・フードの進出でしょう。ナポリが、阻止しえているものが、なぜ、かくも短時間の裡に繁茂し、街並みの美意識を徹底的に破壊しえたのか。それが、京都のような、日本の文化、つまりはアメリカ風の大衆消費とは、水準も価値観も、隔絶的に違う土地ではびこることができたのか、ということを、今一度きちんと考えてみる必要があると思います。

南座の顔見世

 ここで、強調させていただきたいのは、私の申しているのは、古い日本文化と、ファースト・フード的なものとの対立、といったものではない、ということです。
 神社、仏閣といった、文化的な場所は、周りに土産もの屋などができているにしろ、比較的によく保存されているのです。問題なのは、今日、人々が生活している空間において、生活文化が、街並みと暮らしの空間が破壊され、侵食されているということです。これは、本当に致命的なことではないか、などと私などは、考えてしまうのですが。

 京都、イノダコーヒ本店は、日本において、カフェの名に値する、つまりはコーヒーや軽食の旨さ、雰囲気や調度の趣味のよさ、常連のみならず遠来の客も含めての、社交と喫茶の場として、随一の場であると思います。
 その、イノダが、昨年本店の改装をはじめた時、私を含め、知友はみな危惧をしました。当世風な改装をして、あの、快適きわまりないイノダの美質が失われたらどうしよう、と。
 嬉しいことに、その危惧は、杞憂に終わりました。4月に新装なったイノダは、以前の雰囲気をそのままにしながら、客席などのスペースがゆったりした、モダンな空間になっていたのです。
 街の美意識を、復興するのには、別に平安や鎌倉、室町の美学をもってこなくてもいいのです。

イノダコーヒ本店

 イノダが発揮してくれたような、ごく近代的な、せいぜい百年から、五十年くらいの持続の意識をもってくれれば、こんなに無残なことにはならないと思うのですが。

※      ※      ※

 20世紀は、機能性、利便性を追求した世紀でした。
 機能性の追求が、交通、通信をはじめとして大きな成果をあげ、人間の生活を劇的に転換させたことは、改めて指摘するまでもないでしょう。
 この転換が、おおくの面で、人類全般に恩恵を与えたことも、否定できません。

 しかしまた同時に、機能の徹底した追求が、それまで人類が営々と築いてきた文化を、つまりはゆったりとした時間感覚や、地域的特殊性、歴史的文脈などによって編み上げられた生活や、遊戯、信仰、儀礼、価値観、美意識などを侵食し、破壊してしまったことも否定できないのです。

 21世紀、私たちは、さらなる機能の追求を行い、その追求との引き換えにあらゆる文化的富を放棄するのか。
 あるいは、効率は効率として尊重しながら、この崩壊を差し止める決意をするのか。
 その選択こそ、21世紀にとって、大きな岐路となるでしょう。

(終)

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