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第1回
小説家として歴史に絡む必然

第2回
歴史に描かれないエモーション

第3回
美しい人間を書きたかった

第4回
「創造の喜び」を取り戻すために

第5回
ゆるやかな革命

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(5/全5回) 2001.01.17

【第5回 ゆるやかな革命】
福田和也 19世紀末から20世紀初頭の歴史を今に重ね合わせてみると、この商品的・記号的空間に対して異議申し立てなり、あるいは人間的な理念を打ち出そうという機運が、これから徐々に盛り上がってくるんじゃないかと僕は思っているんですけれども。

島田雅彦 僕もそこに大いなる可能性と期待を寄せています。実際に、20世紀初頭のモダニズムやアバンギャルドっていうのも、ブルジョワへの対抗革命のようにして進んできたと思うわけです。

 担い手は無論ブルジョワたちであって、ブルジョワたちが自らの既成の生活様式なり生産様式なりっていうものを見直して、もっと違うシステムをつくっていこうという機運が生まれた。それに超理論的である、レーニン、トロツキーらの仕事がうまく合致したのが社会主義革命だったのかもしれないと思うんですね。

 だから、例えばそれを今日の問題として考えてみると、ピカチュウ一匹で巨万の富を生み出してしまうような、こういうある意味で不合理な経済システムとは違うシステムをつくって、それで個々に高いクオリティのコンテンツを生み出すような市場を新たにもう一回立ち上げたいという、それこそアーティストの良心に目覚めた人たちは、おそらく従来のあまりにも資本主義と結託した商売とは別のジャンルを、既成の諸ジャンル、アートの諸ジャンル、表現の諸ジャンルの中にねじ込んでいこうとするかもしれない。

 一方で政治も、これまでだと自民党あたりが長年やってきたような利益誘導型の、いわば密約がそのまんま国会の場で政治の最重要課題になってしまうような、企業と政治家、官僚との三つ巴の結託の構図でしか進んでいかなかった。

 それに対して、全く政治家には頼らずに、いわば市民が直接に政治の監視をし、選挙制度を変え、政治家の評定を下し、そして全く別の政治家を用意するというような形が現れてしかるべきだしね。ここには、ボルシェビキの革命みたいなテロルは入るべきではないと思いますが。

 しかし、政治や社会を変革するのは政治家ではない。むしろ、政治家を選ぶ立場にある市民であり、有権者であり、個人である、と。一人ひとりの理性への欲求がゆるやかな革命となるような。実は思い出してみると、僕はこんなことを『優しいサヨクのための嬉遊曲』を書いたときに言ってたんですけど。

 経済も同様で、ただ単に合理的な大量生産と大量流通をしてきた経済に対して、どこかで消費者がそれを徹底的に批評する目を持ち、場合によってはその企業の、企業犯罪のようなものに対する消費者による制裁として、不買運動のような形の運動も展開し得る。

 さらに、インターネットはひたすら世界同時性をうたって、合理的な大儲けに有利な市場としての活用ばかりが言われていますが、むしろ特定の地域でしか需要が見込めないものに対しても、そのローカル市場をグローバル市場から守るというか、独立したローカル市場として成立し得るような、そういう経済システムの実現ということも可能になっているわけです。現にそういうことも進んでいる。

 だから、それらを総合していくと、いま最前線にあってリアルタイムで暮らしている人の目には見えにくいけれども、50年後にいま起きていることを見返すとすると、20世紀初頭のモダニズム運動やアバンギャルド運動に近いようなことが、水面下で進行していた時代だというように位置づけられるかもしれないですね。

福田 それはさっきおっしゃったように、島田さんがキャリアの最初からやってきたこととつながると思うんだけれども、20世紀の初頭と違うのは非道な抑圧とか、野蛮な窮乏っていうのがないわけですよね。餓死するような飢餓もないところにおいて、なおかつ現状維持に対して「否」を唱えるにはどうすればいいかと。
 それは結局、広義の意味での文学の役目だと思うのですね。

 ディケンズ的な窮乏があるところは、もうはじめからドラマであり文学なんだけれども、それがない場面においてでも、やっぱり正さなければならない不正なり不徳なりっていうものを感知させること。

 あるいは――これはマルクスもアドルノも言ったことだけれども――当然に見えてしまうものを当然でなくさせる役割は、やはり広義の意味の文学でしかできないことです。それについて、あなたはかなり早くから考えてきたのかなという気が、この頃してるんだけれども。

島田 うん。まさに僕に潮目があるとすれば、そこにしかないわけです。僕は村上春樹の文学に代表されるように、ある種の現状肯定を優雅に演出してきた文学とは違うものを目指してきました。

 逆にいえば、いまだに消費生活においても政治においても単に無関心であり、なおかつそこそこに流行っているものをなぞるだけの生活をしている人々っていうのは、村上春樹などを喜んで読みつづけるだろうし、投票には行かないのでしょう。

 投票に行ったとしても、自分が何かを考えることによって、何か行動を起こすことによって政治が変わるなどとは思っておらず、いわばこの現状が永遠に繰り返されると高をくくっているのかもしれない。

 しかし、もはやそういうものは20年前に、20年前が早過ぎれば10年前に終わっていなければいけなかったのではないかと思う。僕の中では。だって、湾岸戦争とか、ヨーロッパやアフリカにおける古い概念である民族主義とか部族主義の噴出っていうのは、つい10年前からの話なんですからね。

 いわば冷戦構造が終わったときに、資本主義の一人勝ちをアメリカは主張して、歴史の終わりを唱えたかもしれない。でも、それを唱えた直後から、また熱い戦争と対立の歴史が始まったにもかかわらず、1989年あたりの、悪い冗談としか思えない歴史の終焉理論の延長上にいる人々は、また、いたい人々はせいぜい村上春樹的世界にとどまっていればよいと思います。ただし、もはや10年前からそういう時代ではないのだっていうことですよね。

福田 多分現象として表面的にわかりやすくなってきたのは、一昨年からですよね。一昨年のサラエボの紛争があって、あそこで結局アメリカの一極体制みたいなものが働かないことがよくわかった。そしてロシアからはプーチンという人が出てきて、からかわれていたものの、かなりやりそうだ、と。

 プーチンと江沢民が動いて朝鮮半島の情勢も動きだして、朝鮮半島ではずっとアメリカがメインプレイヤーだったけれど、ついにメインプレイヤーでなくなってしまった。中東和平も成就できず、湾岸戦争以前の状態に戻って、アラブの大義なんて言葉が言われる。
 これは、いよいよ島田雅彦の時代が来つつあるのかな(笑)。

島田 まあ、贅沢をいうとそうなると僕が一番困るんですね。なぜなら、真面目にならなきゃいけない(笑)。自分の都合で書くものをころころ変えたりできなくなっちゃうから。

福田 じゃあ、少なくともこの下巻は今年中に書いていただくということで。

島田 それはもう、選挙でいうところの公約ですから果たさねばなりますまい(笑)。

(全文終了)

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